第三話

物体に当たった光が反射し、角膜を通して眼に入る。
眼に映った情報は、脳を、意識を、感情を、ゆっくりと支配していく。
何かを嘆いているかのような小鳥の目には、小さな世界の全容を優しく丁寧に包み込むかのように"孤独感"という膜が張る。その膜は、次第にじとじととガラスを曇らせ、小鳥はそれを拭い去るように瞬きをした。
そしてまた、小さな世界が小鳥の目に映り込む。そう。この話何度もしたね。その繰り返しなんだ。
拭いたばかりのガラス越しに、小鳥は数時間前の出来事を回想していた。
被験者のアルバイトに応募したのは、とにかく楽そうだったから。
喫煙者で20代の男性なら誰でも応募でき、受かってもすることは毎日の採血だけ。
ここの研究施設には、何度か別のバイトでも来ていた。本当にいつも楽で、いいバイトだった。採血が終わって、帰ろうとした時だった。
「まだ他に紹介したいアルバイトがあるのですが...」
さっき小鳥の採血をした年配の看護婦が話しかけてきた。
申し訳なさそうな表情で、そのくせ今から思えば随分強引な人だった。
裏口から駐車場に誘導されると、看護婦は逃げるように消えた。
そこに居た"依頼人"は、すらりとした長身の女と、猫背の男だった。
女はぴったりとしたグレイのフォーマルスーツに、踵の高い赤い靴を履いていた。
長身に、さっぱりとした短髪。
それが余計に、背の高さを強調している。
見下すような態度の不快さと、葬式に赤い靴を履いて現われたような威圧感。
歳は30代前半に差し掛かったころだろうか。
もう一人は、威圧的で強い主張を感じさせる彼女とは対照的に、猫背で煙のようにぼんやりとした男だった。
身長差はそれほどないのだろうが、 女に比べて彼は随分小柄に見えた。
薄いグレイのサングラスに、同系色の薄手のロングコート。
レンズの奥では、眠たいような楽しい夢を見ているような、どろりとした奇妙な目がぐるぐると動く。
くすんだ白っぽい髪に青白い肌、口もとだけで笑う仕種は、トリッキーなマッドサイエンティスト...といった風だ。
まだ40そこそこかと思うが、足が不自由らしく、杖をつきながらぎこちなく歩いていた。二人が並んで歩くと、女のヒールと猫背の杖がコツコツと忙しなく、駐車場に反響した。
"金魚"と"シャム"。
彼らを監視することで、1日につき3万円の給料が口座に振り込まれることになる。
小鳥は躊躇った。
今になって思うと、何故あの時に躊躇ったのか分らない。
女はわざとらしいため息をつき「足りないかしら?」と眉間に繊を寄せた。
猫背は「ソープ嬢ならもっと稼ぐかな」と言ってにやけたが、それに対して女は何も答えなかった。
小鳥はその場の雰囲気に流されるように、彼らに連れられて行った。
その場の雰囲気に流されさえすれば、いつもと違う何かが起こる。
何故か、そういう気分だったのかもしれない。
ついさっき採血をした研究施設の別棟は、普通のマンションとあまり変わらない作りになっていた。
殺風景な部屋に、PCモニターが三台。
ベッドとサイドボード、奥にはトイレとバスルーム。
「ねえ。ちょっと、私もう行くわよ。この部屋、嫌なのよ」
そう言うと、女は足早に部屋を出て行った。
まるで誰かに会うとまずいとでもいったように。帽子を深くかぶった彼女は、部屋を出る時、異様にドアを静かに閉めた。
薄暗いその部屋で、三台のモニターの光はやけに眩しく瞬いていた。
猫背の男は、部屋の隅に二脚重ねて置いてあったスチールの椅子をモニターの前に置くと、それに座るよう小鳥に目配せた。
促されるまま、小鳥はそれに腰を下ろす。
着ていた薄手のコートが、こすれて音を立てた。
人に決めてもらうのは楽だ。
だけど、人に全部決められるのはイヤだ。
人に決められたものの中から、自分が選ぶのが一番いい。
結果が悪くても、"結局はじめから自分がしたかったことじゃない"と言い逃れることができるからだ。
安全で、楽で、便利な方法だ。
「あの眼鏡の仏頂面が"金魚"で、眠っているのが"シャム猫"」
小鳥が腰を下ろしている椅子の背に手をかけ、前屈みになった猫背が耳元で早口に囁く。
同時に、金魚の指に挟まっていた煙草から、灰が床に落ちた。
どやらこれは静止画ではないらしい。
それがはっきりわかるほど画質は鮮明で、カメラはソファーを中心にズームアップされていた。
「金魚は外出することがあるけれど、接触は絶対に禁止。彼らの部屋はここの真上。エレベーターはプログラムしてあって、ここから上の階には行けないようになっている。もちろん非常階段にも鍵がかかっているし...、まあ...、そこまでして彼らに接触するメリットはあまりないだろうけれどね。...さて」
流れるように説明すると、一呼吸置く。
「彼らの生活の監視をしてもらう。それが君の仕事だよ」
猫背は、じっとモニターを見つめたまま続けた。
「ヘビースモーカーとミュータントが一緒に暮らしている、その様子を、たった二週間、監視をしてくれればいい。二週間経ったら、君は別の人間と交代になる」
そう言いながら眠たそうにサングラスを外すと、猫背は目をこすった。
「できる?」
そういえば、昔も何かで言われたことがある。
"できる?"
とっさに『イヤです』と言いそうになる。
『できるとか、できないとかじゃなくて、やりたくないです』
そうだ。
なんだってそうだ。
部屋の掃除だって、習字の教室だって、妹に優しくすることだって、一人で親戚の家に行くことだって、隣の家に回覧板を持って行くことだって、 父親の見舞いに行くのだって、なんだって。
"できる?"と聞かれたら初めから答えは決まっていた。
『できるとかできないとかじゃなくて...やりたくないから嫌だ』
なんでだ?わからない。もう、覚えてない、そんなこと。もうその糸は引いてもなんの反応も示さないだろう。
ふと、煙草に集中していた金魚の目線が小鳥を捉えた。
「時々ああやってカメラを見るんだよねぇ。金魚は...」
その時の猫背の口調は、何故かとても嬉しそうだった。
そうだ。
彼はカメラを見たのだ。
自分と目が合ったのではない。
だけど。
彼は、居る。
この部屋の真上に、確かに存在している。
目が合っただけなのに、小鳥はそう確信した。
いや、確信という言葉は間違っている。
"確信"ではなく、"実感"。
リアリティだ。
「彼らは自分たちが監視されていることを知っている。カメラの位置も正確に把握しているんだよ」
猫背はゆっくりそう言うと、腕時計をちらりと見る。
18時を少し過ぎていた。
サッと窓ガラスを、…いや、瞬きをすると、もう金魚は小鳥を...正確にはカメラを見てはいなかった。
「それで...オレ、どうすればいいんですか?」
小鳥は、声を発して驚いた。
自分の声が、まるで知らない人間の声に聞こえたからだ。
しかしその声は、自分の聞きたいことを質問してくれた。
「これ、録画されてるんですよね?」
確かに、モニターの左上にはRecマークが点滅しているし、足下に未開封のDVDが積み上げられている。
猫背はきょとんとした顔で小鳥を見た。
意味がよく理解できていないといった風だ。
「録画済みのディスクの管理が必要なんじゃないかと...」
小鳥はしどろもどろに言い直す。
「ああ。これは...」
足元のDVDに気がついた猫背は、それを懐かしそうに眺めて言う。
「君の前の人が勝手に買ってきたものだから...、ただ、もし君が記録をしておきたいと思うのであれば、好きにすればいい 」
猫背はにやりと笑って「言ったじゃないか。君の仕事は"監視"だよ」と囁いた。
「記録用のディスクを買いに行く暇があるのなら、彼らを見ていてほしい。見ているだけでいいんだよ」
最後の方はまるで呪文のようだった。それから小鳥はただ、目の前のモニターに映る二人をじっと見ている。
それがどうやら彼の新しい仕事。
『監視』である。
猫背は、小鳥の返事を曖昧に流すという方法をとった。
"やる"のか"やらない"のかはっきりとは聞かず、「それじゃあ、2週間後に...」と言うと、彼はふっと消えるように居なくなったのである。
もしも猫背がはっきりと、断るのか引き受けるのか小鳥に問うことがあれば、彼はとっさに断っていたかもしれない。
なんでもそうだ。答えははじめから決まっている。 例えば、それを本当にやりたいと思っていたとしても。
猫背がそれをはっきりさせなかったのは、小鳥にとって好都合だった。
彼はもう、ケーキ箱の中の二人にすっかり夢中になってしまっていたのだ。